上から順に返信する前にTwitterについて僕なりの意見を一つ二つ。
人それぞれ使い方はありましょうが、純粋に作家さんが名前を出して使う場合だと仮定しましょう。まず、基本的にTwitterはフォローワーが多いほどツイートを見てくれる人、ツイートへの返信(言及)やDMなどをくれる人が多くなります。有象無象の個人でやっているよりはライトノベル作家であることによって、フォローワー数がかなりの数を得ることが出来ます。
また、作家個人のファンの人たちのフォローワーは、多少なりとも作家さん自身のことについて知りたいでしょうから、そういう人たちとの交流が加速しやすい。公募のような形でのアイデアの募集。純粋に作品のファンの人との交流の場として使用するなどがあるでしょうが、ぶっちゃけると作品の宣伝目的に上手く使うことが出来れば非常に役立つかもしれないと思います。
読者でフォローワーの人は作家の人と部分的にでも繋がっている気持ち(親しみ)になることが出来て、ファンとしてこれからも作品を買ってくれる可能性が上がるでしょうし、逆にTwitter上の先生を見て作品に触れてみようという新規開拓にも繋がるはずです。ガガガ文庫の渡航さんなんかは、Twitterとは違いますがブログの面白さというか痛さと言った方がいい、で新刊の売れ行きが多少は伸びたような気がします。
参考リンク 渡航日誌
http://d.hatena.ne.jp/watariwataru/
実際問題、見ず知らずの人からネガキャンされるようなことはあまり気にしなくてもいいのではないと思ってます。アンチな人はすぐさまブロックしてしまえば解決ですしね。
また、失言をすることを恐れるなら発言数を減らせばいいですし、ひとから恨みを買うようなことは避けて一般的なこと、どんなところで作業しているとか、なにを食べたや創作上のこつなんかを話す程度でいい。いやな言及やコメントを返したくない気分の時はスルーで、とその辺の緩さがTwitterのいいところだと思います。後はリアルタイム性と気軽さですか。ブログを書くよりもずっと楽なのは僕もやっていて感じますから。そこまでつぶやいていないのも僕の場合事実ですが(笑い)。
やってみて損はないと思いますという話が長くなりました。どうでもいいんですがMacは個人的におすすめ、一太郎は使えませんが。以上Apple信者からでした。本題に入ります。コメントを。
>>漫画は外から見ることが出来るが小説では中に入って同一化するという違い。
これは確かに大きな違いですね。そもそも絵が本題の物を小説にするという取り組み自体非常に困難に思えます。いくら似せても別物であることは否めませんが、GJ部は四コマ小説であって4コマではないので、厳密的に同一ではなくとも同じテイストなので読みたいなと思ってくれれば成功だと思います。
GJ部の場合、絵本に近いぐらいの挿絵の数もまた変わっていますね。それも一つのお話が終わった次の見開きで挿絵が出てくるという仕様。これによって読み手は、あくまでも話は文章で読んだ後、自分の文によって抱いたイメージを挿絵で修正、補足、具体化されるということが起きていると感じます。キャラクター自体のかわいらしさ、表情、立ち振る舞いがより読み手に強く記憶されるのでこれを考えた人は考えているなと思いました。イラストのあるやさんと編集さん、あるいはデザイナーさんGJです。
それとはあまり関係ないんですが、表紙のカバーをはがした裏になにか仕掛けが出来ないものでしょうか。漫画なんかではよく4コマや街(舞台)の説明(神知るとか)、イラストなんかが描いてあって驚きと共に楽しめるのになと思ったりして。なぜやらないのか少し疑問に思ってます。コストは増でしょうがプラスのことも多そう。
>>完全客観は4コマに向かない。
地の文が多くなるのでは厳しいですね。やっぱり、リアルタイム性というのが重要かなと思います。それには会話文重視が妥当。余計な力を使わずに、脱力でということはまさに一巻あとがきで言っておられたのと同じことですね。いかに楽に読めるか、ライトノベルの中でも更にライト化した結晶体とでもいうべき作品がGJ部。
>>超然としたポジションからの視点
これは僕が散々書いた喫茶店の隣の客視点に近いイメージを受けます。他者から意識されることが少ないのに近くで観測できるそんなポジションにいるキャラ。ハルヒなら長門視点ですか。宇宙人としての主観を減らさなければならないのでキャラの魅力ではマイナスでしょうが。
ラノベ部を読んだことが実にところないので食わず嫌いはいかんと反省。ささみさんはもろに4コマ小説を意識していると日日日さん自身どこかで言っていたような。先駆者たるGJ部の後へ続けといろいろな取り組みが出てくるのは良いことだと思います。俺の後に続けみたいなね。後、すてっち!と言う作品が同系統であるようですがHJ文庫というマイナー文庫で存在すら2日前まで知りませんでした。はてブコメントで教えてもらったんですがね。
>>まおゆうの件
全てを会話劇、行き着く先はやはりそれになってしまう。
>>最後の色々
会話文だけで混乱しなかったか。
確か一回だけ混乱したような記憶がありますが、それ以外は問題なしでした。案外いけるかもしれません。
GJ部の場合、二人で会話していて後から誰かが加わってくると言うのが多い。部長と話している場合だったら、紫音さんが来て、恵ちゃんに振って、キララが最後みたいに。
その京夜との会話の対象の切り替えで一度だけ戸惑ったのだと思います。それを防止しつつ、地の文を廃した状態で一人対複数のキャラ同士で会話をさせる。それには、二つほど必要なことのではないのかと勝手に推測をします。
一つは規則的な会話回し。初めは部長に、そして次はきららにのように京夜と会話する順番をターン性にして回す。この場合、女の子キャラ同士で会話する機会が減るように思えます。ターンが崩壊しますから。
2つめは、語尾などで各々の会話の差別化。今でも紫音さんは丁寧語かつ落ち着いた話し方、大人。部長は、ぶっきらぼうで断定系を、でもかわいらしさは無くさないように。恵ちゃんは、丁寧語でなおかつ伸ばしたり(ー)、若い女の子のように、小さな(ぇ)を付けることや文を途中で終わらせて余韻を出させる。なになにで。そういうわけで。のような例で。キララの場合は言う必要はありませんが、外国の人が単語を並べるような感じで。
そんな工夫を突き詰めていくと、「とある魔術の禁書目録」みたいな会話だけで個性がもろに出るとんでもキャラ達の集まりになります。
>>昔話
ずいぶん前に読んだ新人賞の本で電撃大賞の下見をしていう人が言っていた体験談で、全て会話文の作品が送られてきたらしい。そのときは、すべての会話文に誰が言ったのか名前が振ってあったそうです。その人は他の部分が悪かったので落選したそうですが、漫画でもなく小説でもない、そういった位置づけにライトノベルが置かれつつある今なら僕は全然ありな方法だと思ったりして。
>>バカテスが読めない
これは初耳ですが、主人公に引いてしまう、理解出来ないと言うことでよろしいですか。変わった人間である僕の場合、ライトノベルぐらいなら仮想的なキャラをたてることで全く理解不能なキャラ視点でも読めるという無駄な特技があるのでよく分かりません。
岩波文庫の厚い本などでは途中で飽きるので無理ですが、ライトノベルならばライトであるが故にそんな方法が取れたりします。それが、おもしろいと理解出来るかは別問題ですが。
バカテスの場合、あそこまで行くと劇の台本を読んでいるような気になって全く楽しめない。そんな理由はありませんか、ありませんよね。
ライトノベルの本質として感じるのは読んだ後、面白い、次の新刊が読みたいという気分にさせるかどうか。それが強ければ熱狂的なファン=バーサーカーを呼ぶでしょうし、薄ければ打ち切りと。固定ファンを獲得出来るかにも関わってきたりして。
このへんで申し訳なく思いつつある長文を閉めます。例の日常系とキャラクター小説の違いはまた今度で。若い僕では、分かりかねる読者層の多様性によるラノベの感じ方。つきぬ話題はさておいて、丁寧なコメントをありがとうございました。もしもTwitterをやられるならば、フォローしてもらえればいつでもフォロー返しさせていただきます。今書いたことを、ブログの記事として様々なことに配慮しながらしばらくしたらまとめますが、了承をいただければ幸いです。
それでは、またの出会いを。新刀無乃でした。
http://d.hatena.ne.jp/okamurauchino/