明るい家族砲計画っ! 特別短編その2
完全書き下ろしです。これまで未公開。
シリーズ完結に際してまして、HP上にて収録することにしました。


    「はじめてのおつかい」


 新城家のリビングは、今日もおおむね平和だった。
 エプロンを着けた少女がくるくると立ち働いて、夕飯の準備にいそしんでいる。
 まだ夕方にはほど遠い時間だ。しかしこの週末のメニューは、目一杯張りこんで本格ローストビーフ。焼き上げるのに何時間もかかるような大作である。
 オーブンの中では家族六人分の巨大な肉塊がジジジと音を立てて焼けつつあった。
「ママー、お腹すいたー」
 別の少女の声があがる。リビングの絨毯に座りこんだ少女――ヒカリが、元気なく脚を投げ出している。
「まだだーめ。焼けてないし。パパ帰ってきてないし」
 高校生の彼女の名は美奈という。ママと呼ばれても顔色ひとつ変えない。ヒカリが未来からやってきた自分の本当の娘であるということは、彼女は知らないはずであるが、いつもそう呼ばれることで慣れてしまっているのだと。――そう推論する。
 彼女は壁の時計に目を上げていた。“パパ”の帰る時間を計っているのだ。
 一学期末の期末考査が終わって、結果が出て、赤点を取ってしまったのは、“家族”のうちでただ一人だけだった。ママは全科目が九〇点以上。ヒカリは全科目全てで驚異の百点満点。パパだけが三科目ほどの赤点で、明るく楽しい夏休みのため、休日に学校に出かけて行き、いま補習を受けているところであった。
 私は――。
 “パパ”と呼ばれるその人物の、現在地点と進行速度から、予想される帰還時刻をとっくに算出し終わっていた。人工衛星の回線に侵入すれば簡単なことだ。
 この私の性能をもってすれば造作もない。
「ほんと遅いなぁ……。拓真」
 美奈が言う。
 充分に斟酌したうえで、私は、発言しないという行動を採択していた。壁の時計を見上げる彼女が、待つことを楽しんでいると推定したからだ。そのくらいの“気遣い”を行うことは――。この私の性能をもってすれば、もちろん造作もない。
「ねえ。ヨミちゃん」
「はい」
 急に名前を呼ばれて、私の知性は五ミリセカンドほどもハングアップしていた。生物的に言えば驚いていた。だが私がみせてしまった五ミリセカンドの空白は、決して気づかれることはないだろう。ヒトと機械知性とのあいだには、それほどの性能差が存在している。
 彼女が次に何を言ってくるか、ヒトの脳の思考速度に合わせて、五〇〇〇ミリセカンドもの間――主観的には永遠に近い時間、私は待っていた。
「おつかい……、行ってきてくれない?」
「おつかいですか?」
「うん。拓真に頼んであったんだけどね。遅くなりそうだし……。先に準備しておけば、帰ってきたらすぐにご飯にできるし。ヒカリちゃん、待ちかねちゃってるし……」
 と、彼女は微笑む目を床に落とす。
 絨毯の毛の上で、ヒカリは、ぐんにゃりと長く伸びていた。
 生物である彼女は、食物を定期的に摂取しないと活動エネルギーに支障をきたす。つまり生物的にいうところのハラペコだ。その感覚であれば私も知っている。バッテリーの残量が少ないということだ。いろいろな機能がサスペンドモードに落ちてしまうということだ。
 結論。ハラペコはよくない。
「わかりました」
「これメモね。拓真にはメール入れとくから。お金【お金:傍点】と一緒にバックに入れといてあげるから。じゃあ行ってきて」
 彼女はなにか気になることを言っていたが、私は気にしなかった。あとで検索すれば済むことだ。“インターネット”とは便利なものである。あらゆる知識がそこに在る。
「あ――、それから」
 玄関に向かおうとした私を、彼女の声が呼び止めてくる。
「その頭の飾り。おっきいやつ。目立っちゃうから、外しておいたほうがいいよ」
「はい」
 彼女の言葉は第三位の優先度を持っていた。私には逆らうことも異議を差し挟むこともできなかった。
 あらゆるセンサーと通信機能とが内蔵されたヘッドパーツを、正副両方とも家に置いて――。つまりセンサー機能の九八パーセントを喪失した状態で――。
 私は外出した。
 表に出ると――。
 世界はまったく違って見えていた。
 たった二つしかない低解像度の視覚器官で物体を認識しなければならない。歩行にさえ困難をきたした。電柱と頭部中央が何度か激突した。だが問題ない。この私のボディ強度をもってすれば電柱との衝突はなんの影響ももたらさない。
 電磁場レーダーもなく、重力波干渉計も、ニュートリノも視えず、バリオンスキャナも失って、衛星とのリンク機能も、インターネットとの接続さえ断たれて、私は完全なスタンドアローン状態となっていた。かつてない混乱が私を襲う。
 私は――。
 わたしは――。
 わ、わたしはっ――。
 わたしは途方に暮れていた。
 生物的に言うと、いまの状態はまさに「途方に暮れた状態」という状態であり、おそらくいま私は紛れもなく途方に暮れているのだった。この体験はまさしくわたしのアイデンティティに対する――。
「ワン! ワン! ワン! ワワン! ウウーーッ!」
 わっ。わっ。わっ。
 犬が吠えて。いまっ。犬がっ。いきなり。ワンワンって。そこからっ。物陰からっ。飛びだしてきてっ。探知圏外っ。意識の外からっ。
 わあ。わあっ。わあああっ。
 …………。
 うわーん。

                    *

「んふふふふー、いいお天気だねー」
「ああ」
 拓真は道を歩いていた。
 その腕にぶら下がるように、小学生の少女が、ぴっとりと貼りついて歩いている。小さくとも小生意気な弾力の胸を、ぎゅううと押しつけて幼妻的に誘惑してくる。
 拓真は仏頂面になっていた。
 いや。嬉しくないかというと、決してそんなこともないのだが。しかしあれだ。人としてどうかと。相手は小学生なんだし。孤独に生きてきた彼女に対して父親的役割を果たすと誓ったのだし。それに自分には心に決めた相手が。好きな相手が――。
「デート日和だねー」
「なっ――」
 なんですと。
 拓真は言葉を詰まらせた。驚いてうろたえて、仏頂面で無愛想な返事も返せなくなってしまった。
 デートだったのかこれは。知らなかった。学校帰りに偶然出会って道を歩くとデートになってしまうのか!
 拓真はスーパーの前で直角に曲がった。
 少女――理央を腕にぶら下げたまま、店の中に入ってゆく。
 今日は寄らなくていいと、さっき美奈からメールは届いていたが、この事態をなんとかしなければならなかった。デートから買い物へと――ステージを変更せねばならない。
 一刻も早く。美奈にバレちゃわないうちにっ。
「一緒に買い物だなんて、なんか、若い夫婦みたいで――、照れちゃうよね……?」
 店内に入ると、小学生の少女は顔を染めながらそう言った。
 うわあああ。
 スーパーの店内からも逃げ出そうとした拓真は、ふと、見覚えのある人物を見かけて急停止した。
 翠【翠:みどり】の長い髪。どこかのレースクイーンかというような奇抜な服装。トレードマークのツインテールは今日はお休みで、髪を後ろに下ろしてはいるが、それはまぎれもなく――。
「ヨミじゃん?」
 ぶうんと一回転振り回されて戻ってきた理央も、拓真とおなじものを見て、そう言った。
 店内のコーナーの一つで、彼女は手にしたメモと、棚に陳列された商品とを見比べていた。ひとつひとつ手にとっては、ラベルを確認。また棚に戻している。
「なにしてんだ? ――棚の整理?」
「買い物……、とか?」
 拓真は理央と二人で首を傾げた。
 とりあえず様子を見守ることに決めた。

                    *

 またひとつ、ラベルを視覚でスキャンする。
「これはナットウ。金の粒。――レタスとは違う」
 品物を棚に戻して、その隣の品物を手に取ってみる。
「これはトウフ。特選絹ごし。国産大豆使用。――でもレタスとは違う」
 わたしは生物的に言うと途方に暮れていた。
 レタスはどこにあるのだろう。
「トーフ……、トーフ……」
 そんな声が聞こえてきて、ヨミは顔を向けた。
 ヨミの腰あたりまでしかないようなヒトの子供が、棚ばかり見て前を見ずに歩いてくる。
 彼女がじいっと見つめていると、そのまま、お腹のあたりに顔をぶつけてきた。
 こてん、と後ろ向きに倒れる。
「だいじょうぶですか?」
 ヨミは男の子を助け起こした。年齢は四齢か五齢――少なくとも彼女より年上であることは確かだった。アンドロイドであるヨミは、生産工場をロールアウトして、まだ一ヶ月も経っていない。
「おネエちゃん、ごめんなっ」
 男の子はそう言った。ヨミの想定したいくつかの可能性をすべて裏切って、少年は泣きもしなければ怒りもしなかった。そして自分の非を認めて謝ってきた。ヨミのなかで少年への評価がすこし上がった。生物的に言うと好感を持った。
 ヨミは彼の過ちを正すべきか考えた。「お姉ちゃん」とは年上に使う言葉だ。だがどうでもいいことなので放置する。その誤解は実害をもたらさない可能性が高い。
「トウフを探しているのですか?」
「うん。トーフ。ママがかってきてー、って」
「これがトウフです。私はそのことを知っています」
「あっ。ほんとだ。これ中がトーフだ。こんないれもんに入ってたんだー」
 少年は棚を背伸びして見つめている。五歳の背丈では、背伸びしないと手が届かない。
「でもこれ、いくつもあるよ?」
「肯定します。全種類のスキャン完了には一分二〇秒を必要とします」
「なんてかいてあるの? これ?」
 少年に手渡されてきた二つをヨミはスキャンする。
「こちらは絹ごし。こちらは木綿」
「トーフじゃないの?」
「トウフである蓋然性は高いです。おそらくどちらもトウフです。木綿と絹ごしという単語はトウフの種類を示している可能性が九八パーセント」
「おネエちゃんってバカだろ」
「どちらを買うべきか指示は受けていますか? メモは貰っていますか?」
「ううん」
 少年は首を振る。
 ヨミは少年と二人で本気になって悩んだ。地球の全コンピュータを合わせたよりも一桁多い演算量が駆動され、周囲の気温を数度ほど引きあげた。しかし圧倒的にデータが足りない。いくら演算しても答えを導き出せない。
 少年が不意に言う。
「どっちもトーフなら、どっちでもいいんじゃん?」
「なんという名案」
 少年が引きずってきたカゴの中に、トウフを入れる。
 他にも買う物はあるらしい。
 ヨミはしばらく少年と行動を共にすることに決めた。彼についていったほうが、ヨミの目的達成の可能性も上がりそうに思えた。

                    *

「あれ、カレシかなっ?」
「ばっ、馬鹿っ。んなわけ、あるわけねーだろっ」
 柱の陰から様子をうかがう拓真は、隣で同じようにしている理央に突っこみを返した。
 なんつー不吉なことを言うのだ。それでも母親か。人の親か。ヨミに虫がついたことを喜ぶなど。血も涙もないとはまさにこのことだ。
「ヨミにカレシができると、拓真、なんか困ることでもあるの? ――男親ってそういうもん?」
「ばっ、馬鹿っ。困るわけないだろ」
 美奈もヒカリもそうなのだが、理央も話をまったく聞いちゃいない。かと思えばぜんぜん関係ない方面にいきなり話を飛び火させてゆく。拓真の心境など、いまのこのこととは、なんの関係もないだろうに。
「カレシなわけねーだろ。どう見たって歳の差、ありすぎだろっ!」
「ヨミって生後一ヶ月だよ。拓真忘れてるみたいだけど」
「あのな――」
「あ――動いたっ」
 なにか言い返してやろうとしたのだが、理央がツインテールを跳ねあげて言ってきたのですべて中止となった。
 買い物途中の若い夫婦、じゃなくて――理央と自分との年齢差を考えるなら、仲のいい兄妹といったあたりだろう――をさりげなく演じて、腕を組んでふたりのあとを尾行する。
 幼稚園くらいと思われる男の子と、ヨミの二人は、行き先も定まらずにふらふらと店内を歩きまわっすいた。
 美奈と一緒に買い物にきたときのように、各コーナーを一筆書きにして最短ラップを刻むのとはえらい違いだ。
 二人が迷走しているのは男の子のせいもあった。お菓子のコーナーの前を通ると「オカシだー」と駆けていき、ソーセージが置いてあると「ワンタンマーン」と行く。そのたびにヨミが捕まえて引き戻してくる。お散歩ワンコみたいにリードでも付けておくべきだろう。
「ほらアナタ。こっちこっち」
 理央に腕を引かれてコーナーを急旋回する。仲のいい兄妹路線がいきなり台無しにされている。なんの法則性もなくいきなり進路を変える二人に、尾行するほうはもっと大変だ。正直こちらも、端から見てもかなり怪しい二人組になってしまっている。
 だが二人には目の前しか見えていないのか――。
 こちらに気づくようすはまったくない。
 ヨミと男の子の二人は、気の向くまま、思いつくまま、棚の商品を手にとってはラベルを眺め、そして元の場所に戻すという動作を繰り返していた。そしてごくまれに、なんだか偶然っぽくヒットすると、品物を棚に戻さずカゴへと移すこともある。
「あれはやっぱ、おつかいなのか?」
「はじめてのおつかい?」
 ヨミと男の子との奇行に無理矢理に意味づけすると、そういうことになる。
 そういえば、ヨミが手にしているエコバッグ――。あれは美奈がいつも持っているものと同じであるような気がする。
「待て。いま訊いてみる」
 拓真は美奈にメールを送った。「ヨミにおつかい頼んだ?」という文面に「拓真おっそーい」と返事が返ってきた。これは美奈語でいうとYESという意味だ。
「そうだとさ」
「あとなに?」
「レタス。ベビーリーフ。ぎうにう。シイタケ。麻婆豆腐の素。ドレッシングお好みで」
 拓真は昼間届いたメールのリストを読みあげた。
「さっきレタスは発見してたよ」
「ベビーリーフは? あれレタスの隣だろ。あとシイタケだって近いだろ」
「まったく素通り。ところで――ぎうにうってなに?」
「美奈語でいうところの牛乳のことだ」
「トラップかよ! ヨミ困るじゃん! きちんと書けよ!」
 迷走するヨミたちは、飲料コーナーにさしかかっていた。
 ほら。そこだ。牛乳は右手だ。
 理央二人で念波を送る。
 右を出せ。右だ。おまえの右は世界を取れる右なんだ。
 だが心の中での応援もむなしく、ヨミたちは華麗なるスルーで――。
 とか思ったら、行き過ぎてから振り返ってきた。
 拓真と理央は慌てて後ろを向いた。
「ねえアナタこのチーズ見て見てぇー、かわいー」
「ばかだなオマエのほうがカワイイさ」
 ――とか。若い夫婦の会話を装うが、そんな擬装はそもそも必要なかったようだ。ヨミは本当に見事なまでに気づかない。わざとやってんじゃないか、と思うくらい、気がつかない。
 少年が品物を取ってくる。ヨミは眼鏡を落とした近眼の人みたいに、目を細めた品物に顔を近づける。
「これは牛乳です。ちがいます」
「ちがわないよ。ぎうにうだってばー」
「牛乳と“ぎうにう”は別の品であるはずです。これは先ほどのトウフとは違うケースです。名称が異なっている以上論理的にいえば――」
「ヒカリマン・キーック」
「あ。蹴った。蹴ったよ」
 男の子が向こう臑を蹴っている。
「暴力夫だ! ヨミやり返せ!」
 エキサイトする母をよそに、ヨミはしぶしぶ牛乳を買い物袋に収めていた。釈然としない顔でいるが、この場合にはそれで正解だ。
 しかしガキ。蹴るかふつう。正解だけど。
 その後にも――。「お好みドレッシングという品は存在しません」と言ってごねてみたり。「ベビーリーフはベビー用品にある可能性が高いです」とか主張して、粉ミルク近辺を無駄に捜索してみたりと――。
 ヨミはその非常識ぶりを盛大に発揮していた。
 そこに毎回つっこんでいる幼稚園児が、なんと頼もしく見えたことか。
 しかしガキ。お尻にパンチとか。スカートめくりとか。おまえそれはセクハラだぞ。この場合は許すが。だが奪ってゆく君を一発でいいから殴らせろ。父親として。
「ねえ……。あといくつぅ?」
 げっそりと疲れた顔になって、理央が訊く。
「あと二つ」
 拓真も疲れ果てて短く答える。やきもきしていて精神的に疲れきっていた。
 それでもヨミたちが急にこっちを向いたときには、「ねえアナタ見てこの米袋イカしてなーい?」「部屋に飾るといいんじゃないかな」とか、若い夫婦の会話を装うことを忘れない。
 ヨミたちはいま鮮魚コーナーにいた。
 そしてシイタケを探していた。
 なぜキノコが魚売り場にあると思ったのか、拓真たちの知る由もないが、とにかくヨミは魚のパックをひとつひとつ読みあげている。売り場のパックを全調査してゆくつもりらしい。
 本気だ。
 あの子はそのくらいはやってしまう子だ。根気という点では人を超えた存在だ。砂浜の砂を一粒ずつ数えあげろと命じられたって、やり遂げてしまうに違いない。
 男の子のほうはとっくに床に座りこんで、「ま〜だ〜」とか言っている。肝心なとこで使えぬやつだ。このさいDVでも何ででも、手段を選ばず“カンチョー”とかやってでもヨミを引っぱっていくべきなのに。
「しかたがない」
「どうすんの?」
 決意した拓真は理央に見晴らせておいてその場を離れた。野菜コーナーに行って、まず「シイタケ」を探す。
 六個入り一パック。中国産。一九八円。じつに手頃だ。これでいい。
 そのパックを手に鮮魚コーナーに戻ってくると、ヨミの先回りをしていった。
 数個ほど先。ヨミの手のいくらか先の位置、アジとタコとの間にこっそりと置いておく。
 そして理央のところに戻った。
「どうだ?」
「もうすぐ。あと三個……。二個……」
 理央と二人で、固唾を飲んで見守った。
「取った!」
「しっ……」
 声を潜めて、物陰から見つめる。
「これはシイタケです」
 ヨミがぽつりと言う。その声にはとりたてて感動はない。砂浜の砂粒を数え終わりました、とか言うのと同じ口調で言っている。
「ほんと? それでいいの?」
 男の子が立ち上がる。
「“ぎうにう”を除いてすべて収集完了です」
「だからー、ぎうにうが牛乳なんだってばー。ヒャクマンエンかけたっていいよ!」
「ヒャクマンエンとはなんですか?」
 ヨミが小首を傾げる。
 聞いている拓真は、どっと疲れに襲われた。まさか本当に知らないのか。
「おまえ。ヨミにどんな教育してんだよ?」
 思わず理央に苛立ちをぶつけてしまう。
「母親だけに責任なすりつけんな。あんただって父親でしょーが。――違うって?」
 ぎろりと、凶悪な目で返される。理央も疲れて凶暴化している。
「任務完了。帰投します」
 ヨミと男の子が歩いてゆく。
「いや。まあ。ほら。とにかく無事にぜんぶ揃って……、よかったよな?」
「うん……、ま、まあ……。あたしも、こんどちゃんと教えとく」
 理央も手指を揉み合わせて、しおらしい声で言う。
 と、その手をほどいて、片方を拓真に向けて差し伸ばしてくる。
「ん」
 仲直りの合図だ。
 拓真は差し伸ばされた理央の手をしっかり握って、歩きはじめた。
 ヨミたちの後ろについて、レジの方面へと向かう――。
 いや。
 ヨミたちは――。ヨミは、レジに並ぼうとしなかった。
「あれ? あれれっ?」
 拓真たちがぎょっとして立ち止まる。ヨミの背中が遠ざかってゆく。ヨミは出口に向かって、迷うことなく、どんどんと歩いていってしまう。
「おい。お金。あれ? ――おい。おいってば」
「ヤベえ――ヨミお金知らねえよ。あたし教えてないよっ」
 男の子がレジを振り返りつつ、ヨミの手を何度か引いていた。
 やれ。いけ。幼稚園児。がんばれ。止めろっ。なんか言えっ。
 男の子はポケットのなかから硬貨を何枚か掴みだして、ヨミに見せている。レジを指差してなにか言っている。だめだよお金払わなきゃ、と言ってくれているに違いない。
 よし。いいぞっ。
 ヨミは差しだされたコインを、しげしげと見つめた。
「銅七五パーセント、ニッケル二五パーセント。こちらは銅が九五パーセントで残りは微量の亜鉛と錫です。――これがなにか?」
 百円玉と五十円玉、そして十円玉を分析し終わって、ヨミが言う。
 だめだあああぁ。
「行きましょう」
 男の子はまだ納得しない顔だったが、ヨミがあまりにも自信満々に店を出て行こうとするので、なんとなく引っぱられていってしまう。
 もう一刻の猶予もならなかった。
 仕方がなかった。ヨミの「はじめてのおつかい」を成功させるため、こうして若夫婦にまで身を落として見守っていたわけであるが――。
 拓真は決意した。
「拓真。行かなきゃ」
 理央も同じことを考えていたか、二人、顔を見合わせてうなずきあ。
 すたすた――と早足で歩きだした。ヨミたちを追い抜いて、その前に出ていこうとする。
 止めねばならない。
 二人が店を出てしまう前に――。“万引き”をやってしまう前に――。
 父親として。そして母親として。
 と、その時――。
 後ろのほうで、突然、大声があがった。
「あんたそれは万引きだよ!」
 一人の客が、別の客の腕を掴んで叫んでいた。
 手を掴まれているのは中年の女性。手を掴んでいるのは初老の男性。
 おばさんはバッグの中に品物をこっそりしまおうとしていところだった。それを見咎めた男性が、過ちを犯させないために叱りつけているのだ。
「あんたいけないよ! お金払わないで持っていったら万引きだよ。万引きは犯罪だよ」
「か、買いますよ! お金払いますよ! 払えばいいんでしょう! 離しなさいよ!」
 おばさんは手をふりほどくと、レジに向かって大股で歩いていった。
 短い間に人だかりができあがっていた。拍手こそあがらないものの、誰の目にも賞賛の目があった。男性が万引きを未然に防いだことを、まわりの客のほとんどはきちんと理解しているようだった。
 そしてたぶん――。
 たったいま理解したのが、そこにぽかんと立っている二人。
 そしてそれどころじゃないのが、こっちの――。自分たち二人。
「ほーら見てごらんお前っ。この野菜じつにラブリーじゃないかぁ」
「すごいわアナタっ。このジャガイモあなたそっくり。ぜひ居間に飾りたいわっ」
 すぐ近くまで来ているヨミと男の子にバレないように、拓真と理央必死に若夫婦を演じていた。
「万引きは犯罪」
 ヨミが中空を見つめてつぶやいた。
 きゅいーんとメカっぽい音がして、その表情が一瞬、固まる。
「……書き込み完了しました」
「だからいったよ、おネエちゃん。おかねわたさないと、だめなんだってー」
「それは犯罪です。いけないことです」
「おネエちゃんってバカだろ」
「肯定します。私は色々学ばなくてはなりません。しかしこの私の性能をもってすれば、あらゆることは学習可能で――」
 二人はレジへと向かっていった。
 そして拓真と理央も――。
 周囲の人たちから奇異の目を向けられて、人として大事なものをそこはかとなく失いつつ、最も大事な一つだけは、なんとか守りきっていた。
 はっ、と気づいて。
 ぎゅっと繋ぎあっていた手を、拓真は慌てて放した。手のひらに汗がじっとりと滲んでいた。
 理央もどこか気恥ずかしそうにしていて――。
 家までは、一メートルの距離を開けて歩いた。

                    *

 私は――。
 任務を完了させて、家に帰投するために道を歩いていた。
 偶然にも彼の家は近くだった。途中までの道は一緒であり、よって私は、彼と並んで歩いていた。
 手をしっかりと繋いでいる。
 彼に対して、私は生物で言うところの「感情」に属するものを持つようになっていた。
 同じ目的に向けて協調行動を取った存在に対して覚えるその感情を、どこに分類すべきなのか、私は道すがら、考える。
 「友情」とも異なる。大きな分類としては「好意」に含まれるが、そのサブジャンル的な位置にある何らかの情動。
 「信頼感」にはわりと近い。マザーやファザーに感じる「敬愛」よりは等身大。
 よくわからない。「わからない」という解答を私の論理回路が許容するということ自体、わからない。
 彼と別れる分岐路が迫ってくる。
 ぎゅっと握った私の手を、彼がふりほどいてきた。
 私は自分の一部を持っていかれたように感じた。そして混乱して――たっぷり五〇〇〇ミリセカンドほど、つまり五秒ほど、自分の顔がどういう表情を形作っているのか、自分でモニターすることが不能となった。
「そんなカオするなよ、おネエちゃん!」
 彼は言った。
「約束なっ!」
 と、彼は手の小指を突き出してくる。
「またあおうぜ! あそぼうぜ!」
 彼が小指を絡ませあおうとしているのだと理解して、私は同じようにして応じた。
「オレたち“せんゆー”だからなっ!」
 彼は走っていった。彼の姿が視覚で追えなくなるまで見ていて――。私は手元に視線を落とした。
 小指を見つめる。あの行為になんの意味があったのか、よくわからない。
 私はもっと学ぶ必要があるようだった。

                    *

「おかえりー」
 家に帰ると、美奈が明るい声で迎えてくれた。
「ありがとー。助かった」
 彼女の手が買い物袋を受け取ってゆく。
「すいません。美奈。ぎうにうは――」
「ん。あるね」
 彼女は袋の中を見て大きくうなずいた。よかったらしい。
 牛乳=ぎうにう。
 書き書き。きゅいーん。完了。
「はい。おつかれさま。――あれ? いまなんか言ってた? 牛乳が?」
 彼女がそう質問してくる。
「いえ。なんの問題もありません」
 私はそう答えた。
 玄関のほうで物音がしたので、顔を向ける。
 廊下をやってきた人物が部屋に入ってくるまで、誰だかわからなかった。
「ただいまー……」
 ファザーだった。そしてマザーもいた。視覚だけで定かではないが、二人の顔には疲労の色があるように見えた。
「おかえりー」
 美奈は二人にも同じように笑いかける。
「たいへんだった?」
「いいや。ぜんぜん。この俺のスペックをもってすれば大変でもなんでもない」
 ファザーはそう言った。
 二人の態度が通常と異なることに私は気づいた。しかし何故なのかまでは推定不能。
 ファザーの発言の意味も私にはわからない。
 ジョークである可能性が八〇パーセント――そしてこの私の性能をもってしてもジョークの解析は容易ではない。
 部屋に置いてあったヘッドパーツを正副ともに頭部に装着する。
 髪を母から受け継いだツインテールへと結い直しながら、センサー性能が戻ってゆく感触に浸りきる。
 生物的にいうと、私はほうっと息を吐いた。つまり安堵した。
 インターネットとの接続が回復して、まず最初に行ったのは「せんゆー」の意味の検索。別れ際、彼が最後に言った言葉の検索。
 占有。専有。船遊。仙遊。そして「戦友」。
 論理的にいって最後の一つに違いない。
 彼に対して覚えた感情を、その意味を、いまや私は正しく理解していた。

                                  〜FIN〜