明るい家族砲計画っ! 特別短編その1
ファミ通文庫のWEBマガジン、FBonlineに掲載された短編です。
5巻のなかに、この話の話題がでてきます。気になった方はどうぞ。
初出:「FBonline2009、11号」


    「1UPの日」


 新城家の夜のリビングで、ごそごそと動く人影があった。
「たしかこのへんにラーメンが……」
 灯りもつけず、拓真は台所で夜食をあさっていた。上の戸棚と下の戸棚を開けて閉め、電子レンジの上と下とを見てまわる。
「くそ。なんもねえ」
 妙に腹が減って目が覚めてしまった。たいした空腹でもなかったのだが、いざ気になりはじめると眠れない。
 カップ麺どころか、インスタントラーメンもレトルト食も、本当になんにも見つからない。
 まだ夏休みも梅雨もはじまる前――拓真とおにいさんしかいない男所帯だった頃には、インスタント食は標準装備。各社各種取りそろえて常備されていたものだが。隣家の幼なじみである美奈がやってきて、台所ほか家事全般を仕切るようになってからは、その手の食品は一掃されてしまったようだ。
 美奈は賢い主婦であるらしく、冷蔵庫の中にも余分なものは入っていない。毎日買い物をして、買った分はその日のうちにきっちり使い切る。
 それがまた拓真の空腹を煽る。
「標準配給装置もねーじゃんかよ」
 炊飯ジャー型の装置を探すが、本物のほうの炊飯ジャーしか見あたらない。《標準配給装置》というのは、ヒカリが未来から持ちこんできた便利アイテムだった。欲しい物を言って蓋を開けると、なんでも出てくるという便利アイテムだ。ただしすべて“標準品”であるために味のほうはまったく期待できない。カラオケ屋の料理とそっくりな味がする。
 もうこの際、標準ラーメンとか標準おにぎりでもいいのだが――。
 ヒカリは二十年後の未来における美奈と自分との子供であった。単なる幼なじみであった二人が、おたがいを異性として意識しはじめて、いまこうして恋人関係にあるのも、すべてヒカリが送りこまれてきたからだ。他にも、別の二十年後【別の二十年後:傍点】から来たヨミという生体アンドロイド娘と、その母親となるべき小学六年生女子の理央という少女も、現在新城家に居候しているわけであるが、そのへんを詳しくやると長編小説一冊分になってしまうだろう。いや二冊分くらいか。うん。一巻と二巻だな。
 押し入れで寝ているヒカリを起こして装置を出してもらおうか。いいやかわいそうだよな。――と、台所で行きつ戻りつしていた拓真の目は、ふと、テーブルの上に置かれた物体に止まった。
 キノコだ。
 竹ざるの上に一本だけ、いかにも高価そうに横たえられている。
 これはもしや、噂に聞いたあの伝説の……。
「マツタケ?」
 思わず、右を見て左を見る。深夜の台所。ほかに人目があるはずもない。
 おそらくどこかからの貰いものだろうが――。新城家は家族六人と一冊。皆で分けたら薄っぺらいスライス一枚になってしまう。
 それよりなにより、自分はいまお腹が空いている。食べ物というのはお腹が空いている人間にこそ配られるべきではなかろうか。昔の偉い人もたしかそう言っていた。ほらあれ。パンが無ければお菓子を食べればいいじゃない、とか言った人。そうなのだ。ラーメンが無ければキノコを食べればいいじゃない?
 拓真は焼き網を取りだした。豪勢に一本丸ごと姿焼きだ。
 暗い台所でガスの炎が青々と輝く。たいへん美しかった。

                    *

「拓ー、そろそろ起きないと、学校遅れちゃうよー」
 美奈の声とともに、ドアがノックされている。
 拓真はまどろみのなかにいた。半分は起きていて、半分はまだ眠っている。
「あー……、うーん……」
 返事する声もどこか遠くから聞こえるようだ。自分の声のはずが他人が喋っているように聞こえる。
「二度寝禁止だよー。ちゃんと起きてよー。拓ー」
 美奈の声が遠ざかる。拓真の意識はだんだんとはっきりしてきた。
 ほっぺたに誰かの足があたっている。それは手のひらでまさぐるとすべすべで、なおかつぷにぷにと柔らかく、つまりは女の子の脚だった。具体的には太腿だ。
 だがそんなことでは拓真は驚かない。
 押し入れで寝ているヒカリが、こうして布団の中に潜りこんでくることは、よくあることで――。
「あー。よく寝た」
 と自分の声がした。
 布団の中で誰かがむくりと起きあがった。自分でもヒカリでもないもう一人の誰かだ。
 おそるおそる見た。そいつの後ろ姿をじっと見つめる。
 やっぱり自分だ。愕然となった。
「おいヒカリ。おまえも起きろ。まーたおまえ俺の布団に潜りこんできやがって。ほんとしょうがねえなぁ」
 俺でない自分がそう言っている。いまさっき拓真が思ったことと同じことを言っている。
「うーん……、あと五分……、パパたちと寝てるぅ……、川、川がいいでぇす……」
 ヒカリがむにゃむにゃと返事する。
「パパたち?」
 あいつ【あいつ:傍点】がようやく気がついた。こちらを見る。目と目があう。
「な……! なんじゃこりゃー!」
 それはこっちの台詞だ――と、こちらの拓真はそう思った。向こうの拓真は叫び、布団の上で後じさり、意味の取れない叫びを上げている。掛け布団が引っぱられ、裸ワイシャツ一枚のヒカリと、すっぱだかの拓真の体を露わにする。
「おいヒカリ。おい。起きろよおい」
 拓真はヒカリを揺さぶった。ヒカリならきっと、この異常な事態の説明ができるに違いない。
 向こうのあいつは、まだパニックのままで叫び声をあげているだけだった。

                    *

「パパ――1UP【1UP:ワンナップ】キノコ、食べたでしょー!」
 いつもより一人分多い朝の食卓で、拓真たち【拓真たち:傍点】はヒカリに叱られていた。
 昨夜台所にあったキノコは、マツタケではなく、ヒカリが取り寄せた未来アイテムだったらしい。本物なんて見たことないから区別などつかない。
『《1UP【1UP:ワンナップ】キノコ》――分身用アイテムですね。同種のシリーズ製品として、《分裂キノコ》《無敵キノコ》《巨大化キノコ》などのラインナップがあります。提供は、今日も素晴らしい遊びを演出する捻転堂です』
 なんにつかうんだよそれは。
『なんに使えると思いますか』
 そりゃ増えたり増えたり増えたり。増えるとなんかいいことがあったり。
『はい。そうですね。たとえば昼食のとき、カレーを食べるかラーメンを食べるかで迷ったときに、この1UPキノコで、ほうら解決です』
 拓真が会話ならぬ対話をしている相手は、説明書だった。一冊の小冊子だ。これも未来のアイテムの一つで、対話的説明書【対話的説明書:インタラクティブ・マニュアル】という。毒舌仕様という余計な機能がついているが、なかなかに役立ち、そして信頼も寄せている。この新城家ではセッちゃんという愛称で呼ばれている。
『いやセッちゃんでもヨッちゃんでもセツ夫でもべつにいいですが。この1UPキノコ、ユーザー様のように二人の女の子の間でふらふらしている場合にも、大変よろしいんじゃないでしょうか』
 ほら毒舌がはじまった。
「えとあの。拓真。おかわりは?」
 小冊子に手に対話をしていると、美奈が声をかけてきた。学校の制服のうえにエプロンを巻いて、なんか反則なくらい、目にまぶしく似合っている。
「いいよ」
「くれ。――おまえに訊いてんじゃねーよ」
 あいつが茶碗を差しだした。美奈がそれを受け取る。その茶碗は拓真がいつも使っているものだった。箸だってそう。
 そしていま拓真が使っているのは、客用の茶碗と箸だ。茶碗にはご飯がほとんど手つかずで残っている。たしかに自分に訊いたのではなさそうだ。
 食が進まないことは、ある不安が影響していた。
 どちらの自分が“本物”なのかということだ。目を覚ましたときに、拓真は裸でいた。そしてあいつのほうはパジャマを着ていた。裸でいたほうの自分――。あいつではない“俺”のほうは――。食が進まず、こうして精神不安定なときにいつも手にする説明書【説明書:セッちゃん】を手放せない。
『いや説明書冥利に尽きますね。ユーザー様の精神状態はともかくとして』
「ねーほら。クジできたよ。ほら美奈、好きなとこに棒を足して」
 チラシの裏にマジックで縦線に横線――あみだくじを作り終えた理央が、マジックを持って美奈へと迫る。なんのつもりか、理央は朝ご飯そっちのけで、「クジ」などを作っていた。
 ツインテールがトレードマークの、この小学六年生の少女は――口を開かなければ、誰もが年齢相応、外見相応のイメージを勝手に抱いてだまされてしまうことだろう。だが彼女の正体は、一切の権威を認めないリベラリスト。バイタリティと野性味に溢れ、せちがらい世の中を一人で生き抜く力を持っている。
 そして彼女は拓真の“妻”を公言してはばからない。拓真と恋人関係にある美奈とは、戦争中なのか休戦中なのか、それとも同盟中なのかライバル関係なのか、それは当人たちにしかわからない。
 ひとつ言えることは、新城家では、いま二人の未来妻と三角関係が、絶賛進行中であるということだ。いや未来娘まで入れると四角関係か? それとも五角?
「これって……、なんのクジ?」
 美奈がマジックを手に持って、棒を一本引きたす前に訊いている。
「もち。どっちの拓真を取るのかっていう、そのクジ」
 ぶはっ。と、二箇所で味噌汁が噴き上がった。
 あいつ【あいつ:傍点】と俺【俺:傍点】は同時に味噌汁を噴出させていた。
「とるなー!」「きめるなー!」
 叫んだ言葉は、微妙に違っていた。
「なんで。問題解決じゃん?」
「へー。こんな一時間もしない短期間でも、言動に食い違いって生じるものなんだ」
「おにいさん! うなずいてないで! なんか言えよ! 言ってくれよ! SF者のくせにこんなときに傍観者決めてんじゃねーよ!」
 たまらず叫んだのはあいつ【あいつ:傍点】ではないこちらの拓真。溺れる者はSF者をも掴む。
「いやだって。単なる分身でしょ? クローンとかコピーとか転送事故だとか。百年も前からあるアイデアだし。もうさんざん語り尽くされてるし。これってSFじゃなくて、もうすでにミステリとギャグ漫画の縄張りだよ?」
 おにいさんに訊くのがやはり間違いだった。この腐れSF者は、物事をすべてSF度でもって判断するのだった。
「こんなのたいしたSFじゃないし。SF震度で計ったらせいぜい0.5だね。有感以下だね」
 つまらなさそうにつぶやいて、おにいさんは食事に戻っていった。まだぶつぶつと、SF震度のことを口にしている。安静にしていれば感じるがSF度1で、歩いていても感じるがSF度3で、立っていられないあたりからSF度5となるらしい。そしてSF度6からは津波注意。
「クジやらないんだったら、あたし、どっち取るか決めちゃっていーい?」
「だめっ!」
 美奈が叫んでくれた。
「じゃあ美奈が先に選ぶ? あたしそれでもかまわないけど」
「かまいます!」
 美奈がまた叫ぶ。拓真は心の中で応援した。心の中だけで応援した。理央怖い。
「げ。どっちも両方取るつもりだよこの女」
「そ、そんなことは……」
「じゃあ決めてよ。あんたの選ばなかったほう取るって、あたしはそう言ってんの」
 雰囲気が険悪になる。
「ママ! 川! 川! パパが二人いると素敵です!」
 ヒカリは美奈になにかアピールしている。その真意はたぶん常人には理解できない。
 川というのはアレだ。人が三人寝転ぶと“川”という漢字になるというアレだ。拓真が二人でまんなかにヒカリがいて、それが素敵だと主張しているわけだ。
 ちなみにヒカリは事態の深刻さをまるで理解していない。同一人物が二人いると困るという大前提がすっぽり抜けているのだろう。
 あのアイテムを取り寄せたのはヒカリだった。なんに使うつもりだったのかは、食べてしまったいまとなっては、永遠の謎だ。
『しかしどうしたらマツタケと間違えられるんですか。普通見ればわかるでしょう。色も形も匂いだって違うでしょう。私は説明書ですから匂いってどんなものか知りませんが。きちんと1UPっぽい匂いがしてたでしょう。ていうか間違えるにしたってなぜマツタケなんですか。ええたしかにマツタケは皆の憧れの的でありますし、前世でなりたいキノコのベストワンではありますが』
 説明書【説明書:セッちゃん】のいつもの毒舌小言を聞きながら、拓真は一粒一粒、客用茶碗のご飯粒を口に運んだ。

                    *

 昼間のリビングに、ぽつねんと座っていた。
 そろそろ正午を迎える部屋の中は、ひどく見慣れない光景に思えた。
 灯りがついていないせいだ。自分のほかに誰もいないせいだ。時計の針が動く音が、こちこちと聞こえてくるせいだ。
 朝食が終わったあと、拓真は着替えて学校に出かけようとした。予備の制服に袖を通したところで、あいつ【あいつ:傍点】に言われた。――二人で学校に行ったら大騒ぎになるだろと。
 もっともな意見だった。ヒカリのせいで色々な騒ぎが起きて、だいぶ慣れてきた感のあるクラスの面々ではあったが、拓真が二人、というのは、震度でいえば「5」くらいに相当する。「立って歩くのが困難」というレベルだ。
 説明するのも大変だし。机も教科書も二つ必要になってくるし。あいつと机を並べて二の腕をくっつけ合って、ひとつの教科書を見るなんてまっぴらごめんだし。
 マジックを握りしめてずっと待っていたのだが、結局、あいつ【あいつ:傍点】の口から「クジ引き」という提案がされることはなかった。説明書【説明書:セッちゃん】でさえ、当然といった顔で、拓真から奪い去っていってしまった。
 拓真は天井の片隅を見上げた。
 二階のおにいさんの部屋のある方向だ。いま家の中にいるのは、拓真の他におにいさん一人だけ。
 おにいさんの職業はライトノベル作家だ。書いているのはもちろんバリ硬のSFだ。本人は恋愛小説家と言い張っているが、異論など認めない。SF以外が書けるはずもない。おにいさんは引きこもり同然でいつも家に籠もっていて、いつも締め切りに終われ、いつも忙しく原稿に向かっている。あれが小説家というイキモノの一般的な生態であるのかどうか、拓真にはよくわからない。鉄腕編集華蓮さんの話を聞くかぎり、あそこまで酷くはないものの、だいたい似たり寄ったりという感触はあるのだが。
 ばかな。
 拓真は馬鹿げた考えを追い払った。
 いくら人恋しいとはいえ、おにいさんの仕事中の部屋に入れてもらおうとか。マシンガンのようなタイピングの騒音でも、静寂よりは落ち着くだろうか、とか。椅子に座って仕事するおにいさんの足元で膝を抱えていれば、ここで膝を抱えているよりすこしはマシだろうか、とか。
 そんなことを可能性としてでも、わずかでも考えてしまっている自分の馬鹿馬鹿しさに腹が立つ。
 人として、できることとできないことがある。
 だいたいどの口で言う。どんなふうに言う。高校生にもなった男が。「おにーさん、一人でいるとなんか不安だから、部屋に入ってもいいかな?」とか訊くのか。
 ふう。
 拓真は息を吐き出した。腰をもちあげる。そう。昼ご飯でも作ってやろう。仕事中のおにいさんに昼飯を差し入れにいってやり、そして言うのだ。「べつに寂しくて来たわけじゃないんだからな。昼ご飯抜くのはよくないと思っただけだから。勘違いするなよな」と。
 よし完璧。
 キッチンに立った拓真は、ふとナプキンで包まれたタッパーを見つけた。弁当箱のように見えるがそんなはずはない。拓真の弁当箱はあいつ【あいつ:傍点】が持っていったはずだ。
 メモが挟まれていた。「拓へ。食べてください」と美奈の字で書いてある。
 涙がこみあげた。
 美奈は忘れずにいてくれた。こちらの自分のことも、しっかり気にしてくれていた。
「ほらヨミ。言ったでしょ。拓真きっと泣いているって。――当たったでしょ?」
 理央の声が背中から聞こえて、拓真は慌てて目を擦った。
「な……、なんだ。理央。学校どうしたんだよ」
 学校から帰ってきたばかりの格好で、理央がそこに立っている。隣にはいつも一緒のヨミの姿もある。ぺこりと、ヨミが頭を垂れる。
「拓真が気になったから早引けしてきたんだよ」
 理央は当然のようにそう言った。
 小学生の少女を預かっている保護者的立場の人間としては、ズル休みに対して小言の一つも口にしなければならないところだろうが、しかし拓真はほっとしていた。これでおにいさんの脛に寄りかからずに済む。
 理央の目が開きかけの弁当箱を認める。
「お茶いる? 温かいのと冷たいほう、どっち?」
 理央の手によって拓真はちゃぶ台のほうに押しやられた。弁当箱を手にしたまま、おとなしく座布団に座る。
 もちろん暖かいほうに決まっている。
「あの、緑茶か番茶で――」
 顔を向けた瞬間、ほとんど半裸の姿が目に飛びこんできて、拓真はくるりと回れ右して座布団の上に正座した。
 理央は小学校の制服を脱いでいた。臙脂色のハイウエストのスカートを、くるりと頭から脱ぎ捨てて、タイツも脱いで生足になり、子供らしくないぱんつ一枚きりの姿態で、まっすぐに立つ。そしてヨミから渡される私服を身につけてゆく。
 なぜ背中を向けているのにそんなことがわかってしまうのかというと、もちろん、部屋の端の戸棚のガラスに映して、こっそり覗き見ているからだった。
「見てていいよ。夫なんだし」
「はい。いいです。このまんまでいいです」
 拓真は恐縮した。
 この小学生六年女子は、ことあるごとに「夫」と「妻」を強調して、拓真をイケナイ気分にドギマギとさせてくる。
「はいお茶」
 人のいれてくれたお茶を口にすると、心が暖かくなった。味のほうはぜんぜんわからない。さっきのローティーン女子のセミヌードの刺激が強すぎて心臓がまだもとにもどっていない。
 ちゃぶ台の向こう側で頬杖をついた理央に見守られながら、美奈の作った弁当を食べてゆく。途中で一度、いるか、と訊いたが、薄い微笑みが返ってくるだけだった。
「クジ引きしてなかったけどさ」
 弁当箱が空になる頃合いに、理央が突然、言ってきた。
「どっち取るのか。これで自動的に決まったよね」
 理央は目を細めてそう言った。その目に拓真は、ぞくりと寒気を走らせた。
「な、なんでだよ……」
「だって美奈はあっちと学校行ってるし。いま拓真の目の前にいるのはあたしなんだし」
 頬杖をついたままで、理央は言う。
 その言葉の意味が、拓真の心にだんだんと染みこんでくる。
 そうだ。美奈はあいつ【あいつ:傍点】と学校に行った。そして理央は学校を早引けしてまで自分のところにやって来てくれた。
 どれだけ認めたくなかろうと、それが冷たい答えであった。
「ねえ。あたし。“拓”って呼んでもいい?」
「い、いや……、それは……」
 “拓”という呼びかたは、美奈専用なのだった。理央もそれはわかってくれていた。その呼びかたで呼んできたことは一度もない。
「でも、もういないんだよ? 拓真を“拓”って呼ぶ人は。だったらいいじゃん。あたしがそう呼んでもいいよね。それを使ってもいいよね」
「で、でも……」
「あたしのモノになっちゃいなよ。――拓【拓:傍点】」
 拓真は黙りこんだ。
 ずっと考えこんで、お茶が冷えきってしまうくらいの時間が経ってから、訊いた。
「俺。どっちなんだ」
「説明書読まなかったの? どうやって増えるかって、そこのところ」
 拓真は首を横に振って答えた。
 読んでいない。読めるはずがない。
「あのキノコ食べると、お臍のところから、キノコみたいに生えてくるんだってさ。にょきにょき、ぽんって、そうやって誕生」
 起きたとき、拓真は素っ裸だった。いわゆる生まれたての姿というやつであり――。
 そしてあいつ【あいつ:傍点】はパジャマを着ていた。あいつ【あいつ:傍点】はまるで自分が本物であるかのように振る舞っていた。
 それがすべてだった。冷たい答えだ。
 拓真は溜めていた息を吐き出した。理央はすべてわかっていて、それでもなお、自分を――。こんなニセモノの自分を――。
「いい」
 拓真は口にした。
 理央は拓真の頭を撫でていた。その手が髪をかきわけてくる。
「んで本物の見分けかたは――え? いいってなにが?」
「だからいいって。言ったんだ」
「いいのね?」
 理央の目が光った。
 本物はいま美奈と一緒にいる。自分にあるのは、偽物でもいいと言ってくれる理央だけだ。
 自分にはもう理央しかいない。いないのだ。そう自分に言い聞かせつづけていると、理央は――。
「じっとしてていいよ。キスしてあげる」
 小さな唇が触れてくる。その感触を遠くに感じながら、拓真が思い浮かべるのは美奈だった。
 その笑顔だ。

                    *

 夕食の食卓。
「拓真。そんな端っこで食べてないでいいのに。こっちこよ?」
 美奈が気を利かせて、そう言ってきてくれた。しかし拓真は首を横に振って返した。
 新城家の夕飯では、よく鍋が執り行われる。
 しかし今夜の食卓は、ちょっとばかり許容量オーバーだ。一家六人と一冊、そして客【客:傍点】が一人。合計七人。鍋が一つでは遠すぎる。
 長テーブルの端にちんまりと座った拓真からは、箸がまったく届かない。美奈はそれを気にしてくれているわけだ。
 しかしニセモノとしては――ご飯と漬け物だけでも申しわけない気分だ。
「はい。取ってあげたよ。――拓」
 肉と野菜が満載された取り皿を理央が運んできてくれる。つい昨日までの自分だったら、二人に増える前の自分であれば、美奈のまえで理央にべったりされることを嫌ったはずだ。しかしいまは違った。美奈にはあいつ【あいつ:傍点】がいる。本物の新城拓真が――。
「あとなんか欲しいのある? 肉もっとぶんどってくる? ――拓」
 拓真は力なく首を振った。
 美奈が手を止めてこちらを見ている。理央がさっきから“拓”――と、美奈専用の呼びかたを使っていることに気がついたのだ。
 しかし美奈はなにも言わず、皆のご飯のおかわりに応じたり、鍋を取り分けてやったり、あくを取ったり、コンロの火加減を調節したり、ヒカリのほっぺたのご飯粒をつまんで食べてやったりしていた。
 そして自分に対しても、二度ほどおかわりを訊いてきてくれた。

                    *

 六人が入った一番最後に、風呂をいただく。
 居候としての緊張をゆっくり解いてゆきながら、拓真は大きく息を吐き出した。
 全身を伸ばして寝そべることのできる無駄に広い浴槽に、ぷかぷかと浮かんだ。
『一人になれる空間でくつろがれるのもイケナイことをされるのも自由ですけど。ところであの。けっして水に浸けないでくださいね。ぜったいぜったいぜったいですよ』
 湯にぷかぷかと浮かんだ説明書【説明書:セッちゃん】が、そう言ってくる。
 だからビニール袋に入れてあるじゃん。輪ゴムできちんと縛ってあるじゃん。
『しかしけっこう落ち着いていられますね。意外でした。もっと取り乱すものかと。これはユーザー様の評価を改めなければならないかもです』
 理央のおかげかな。
 と、拓真は独りごちた。心の中での独り言も、この対話的説明書にはすべて聞こえているわけだが。
 自分を必要としてくれる人がいることで、ニセモノはニセモノでなくなった。理央にとっては本物なのだということが、支えとなった。
『あれ? じゃあひょっとして童貞じゃなくなりました?』
「なっ――」
 拓真は浴槽のなかでずっこけた。風呂の中で溺死しかけた。
「な! なんでそうなる!」
『いやだって、こういうときには、そういうものなんじゃないんですか?』
「そういうものかどういうものか知らんけど、いいからオヤジ的発想をヤメロ。輪ゴムをほどかれたくなかったら、いますぐやめろ」
 脅しが利いて、下ネタがぴたりと停止した。
 快適な入浴がしばらく続いたあとで――。
『しかしそろそろ24時間ですね。なんだか名残惜しい気もしますけど』
 なにが?
 ゆったりとした気分になっていた拓真は、何気なくそう訊いた。
『なにがって、もちろんタイムリミットですけど』
 タイムリミットって?
『え? あれ? もうちょっとしっかり握ってもらえます? ビニール越しだと思考がうまく読み取れなくて。ユーザー様がなにを知っていて、なにをご存じでないのか、ざっとマインドスキャンかけちゃいますから』
 ビニール袋に包まれてぷかぷか浮かぶ説明書【説明書:セッちゃん】を、言われた通りにしっかり掴む。
『ああ。なるほど。了解しました。やっぱり色々と聞いておられなかったわけですね。1UP【1UP:ワンナップ】キノコの有効期限ですよ。いつまでも二人になっていたら不便ですよね。ですので有効期限が存在します。一本丸ごと食べると24時間、半分なら12時間、4分の1であれば6時間。それで有効期限が切れます。ユーザー様の場合には一本丸ごと独り占めして召し上がったわけですから、24時間ということになります』
 き……、
 期限が、き、切れると……、どうなるんだ?
『もちろん一人になります。ですから名残惜しいですね、と、そう申しあげたわけですが』
 ………。
 拓真は理解した。
 ニセモノの自分は、消えるのだ。
 そうか。消えるんだ。
 そうだよな。ニセモノだもんな。
 ぶくぶくと泡を立てながら、拓真は浴槽に沈んでいった。

                    *

 美奈の部屋の前まで来て、ノックするかどうかで迷っていた。
 隣の実家に私室を持っている美奈だが、最近はこちらの新城家でも空き部屋を一つ使うようになっていた。屋根の上をパジャマ姿で何度も行き来していて、お転婆ですねえ、と近所の人から言われたことがきっかけだ。
 布団もあって、美奈は最近こっちで寝ることが多い。今夜もそのつもりのようで、向こうの家に帰る気配はない。
 いまはもうロスタイムへと突入していた。
 昨日の夜、キノコを口にしたのが、23時32分だという。そしていまは23時35分。すでに3分過ぎている。1UP【1UP:ワンナップ】キノコは本来生で食べるものだそうで、焼いて食べたせいで化学変化が起きて、効用時間に誤差が出ているらしい。それがロスタイムというわけだ。
 5分なのか10分なのか、それとも1時間くらいはあるのか。
 確実にわかっていることは、数時間以上のロスタイムは理論的に有り得ないということだけだ。明日の朝にはもう消えていることになる。――確実に。
 こうしてノックをためらっている間にも消えてしまうのかもしれない。
 しかし拓真は迷いつづけていた。
 理央のものになると決めたのに。未練を捨てられない。美奈の部屋を訪ねてどうしたいのか。自分はどうするつもりなのか。どうしたいのか。もういなくなるから。最後だから。思いを遂げたい? バカな。
 ただ顔を見るだけでよかった。声を聞ければもっといい。それだけだ。そのはずだ。
 携帯の時計で時間を確かめる。23時38分。迷っているあいだに、また3分が過ぎ去ってしまった。
 消えてしまえば迷うことさえできない。カッコ悪いことさえできやしない。
 拓真はドアをノックした。
「はーい?」
 美奈の声がした。そしてドアが内側から開かれる。
「あっ――?」
 美奈は驚いたような顔をしていた。二人いるほうのどちらが訪ねてきたのかわからなくて困惑しているのかも。
「あのさ。美奈さ。俺さ」
 拓真は美奈に近づいた。
 美奈は戸口を塞ぐようにして立っていた。部屋の中にちらりと目を走らせる。ヒカリでもいるのか。なにかを気にしている。
「美奈。俺――」
 拓真は構わず、美奈に詰め寄った。
 時間がないのだ。こうしている間にも自分は消えてしまうかもしれない。
 美奈の手を取って、強く握る。
「あ。あのね。拓真――」
 美奈は困った顔をしている。拓真は美奈の手を引いて、さらに迫ろうとした。
「美奈――だれだ? 俺か?」
 部屋の中から声がした。
 拓真はぎくりと身を固めた。部屋の中にいるのがあいつ【あいつ:傍点】だと、どうして思わなかったのか。
「じゃあ俺。帰るわ」
 男がぬっと現れる。まったく同じ身長のはずなのに、なぜだか大きく見える。美奈と握りあっていた手を断ち切るように、あいつ【あいつ:傍点】はわざわざ間を通って出ていった。
 その背中が廊下を歩いてゆき、二つ先の自分の部屋へと消えてゆく。中から「パパー!」とヒカリの懐く声が聞こえてくる。
 拓真は美奈に目を戻した。
「あ」
 思わず声が出た。間抜けなことに美奈の格好にいまさら気づく。
 美奈の着ているのはフリーサイズのTシャツが一枚きり。裸ワイシャツのヒカリよりは穏やかなものの、Tシャツの裾が明らかに届いていない。隠しきれない下着のデルタゾーンがちらりと覗き、さらには素足の太腿が続いて――。
「あっ――」
 拓真の視線の意味に気づいて、美奈が声をあげる。Tシャツの裾を引っぱり伸ばす。
「ちがうの。これはちがうのそんなんじゃなくて」
 美奈は部屋の奥に引っこんで、ドアをぱたりと閉じきった。ごそごそと、ドア越しに服を着る音がしてくる。
 拓真は廊下に座りこんだ。ドアに背中をもたれかける。
 美奈はなにを「ちがうの」と言っていたのだろう。さっきまでこの部屋にはあいつ【あいつ:傍点】がいたわけだが、それと関係あることだろうか。
「もう――、いいよ?」
 ドアの向こう側から美奈の声が聞こえてくる。だが拓真はドアの前から動かなかった。こうしていればドアは開けない。
「どうかしたの? 拓真?」
 ドア越しの声を聞きながら、拓真は考えていた。自分が二人になったことで、美奈を悩ませている。困らせてもいる。
 美奈は二人の拓真をどちらも対等に扱おうとしていた。それで無理が生じてしまっている。
 理央が正しい。
 片方を自分の所有物とはじめに決めてかかっていた。あいつ【あいつ:傍点】のほうとは話もしていない。
 美奈もそうすれば良かったのだ、“本物”のほうだけに絞って、違うほうとは、こちらの自分とは、話もしないようにすれば――。
「どうしたの? まだそこにいるんだよね? ――なんか言ってよう」
「ああ」
 美奈が不安そうな声に、返事を返す。
「あのさ。……その、ありがとな」
「なあに? いきなり? へんな拓真」
 美奈は笑う。どうやらタイムリミットのことは聞かされていないようだ。
「いや。これまでのことだとか」
 十五年間。ありがとう。
 異性として意識して四ヶ月かそこら。恋人関係になってからは、まだたったの三ヶ月かそこら。幼なじみとしてなら十五年間。その思い出をたっぷりと持っていける。
 自分が消え、新城拓真がただ一人の人間に戻ることで、美奈が悩んだり苦しんだりしなくなるなら、それでよい。
 こんなニセモノを選んでくれた理央には悪いと、そう思うが――。
「拓真。まだいますかー?」
「ああ。まだ【まだ:傍点】いるよ」
 拓真は答えた。なにかの遊びとでも思ったか、美奈の声にはくすくすと笑う響きがある。愛おしい。狂おしいほどに愛おしい。
 あと何分いられるのだろう。
 最期の時間をこうして笑顔でいられるのは、すべて美奈のおかげだ。
「あれー! パパ? パパ? つぎパパの番だよー?」
 二つ先の部屋のほうから、そんな声がする。ヒカリが最近ハマっているのはトランプのババ抜きで、これが哀れをもよおすほどに弱いのであるが、懲りずに毎晩挑んできては、なぜ勝てないのか気づかぬまま、それでも本人的には大いに楽しんでいる。
 二つ先のドアが開いて、ヒカリの頭がぴょこりと覗く。
「あっ――、パパいたー」
 廊下を素足で歩いて来たヒカリは、拓真の前でぺたんと正座すると、手にしたトランプの札をずいっと突きつけてきた。
「はいっ。パパの番です!」
 札を突き出すヒカリは目を固く閉じている。いわゆるひとつの必勝法だ。すこしは学習したらしい。
「いや。あの」
 トランプをしていたのは俺じゃない、と言おうとして、拓真はふと予感を覚えて立ちあがった。
 二つ先の部屋に向けて歩いてゆく。
「拓真。まだいるー?」
 美奈がかくれんぼのように愉快そうな声で言ってくる。その声に返事も返せない。いまは確かめなければならない。
 部屋の中には――。
 誰もいなかった。
 絨毯の上にトランプの捨て札の山があって、その前に、服が落ちていた。
 ジーンズにシャツ。服は畳まれたのとも脱ぎ捨てたのとも違う形をして落ちていた。膨らみの内側には人の形がまだ残っている。シャツの内側には下着のTシャツが見えていて――。まるでセミの抜け殻だ。脱皮したかのように器用な形で残されていた。
 あいつはいなかった。消えてしまっていた。
 後ろに伸ばした手を、拓真はぱたぱたと振りたくった。
「パパどうしたの?」
 とてとてと歩いてきたヒカリが、拓真のその手を、きゅっと握ってくる。
「ちがう! セッちゃんだ! セツ夫だ! あいつを貸せちょっと貸せ! いいからすぐに出せ!」
『はい。なんざんしょ』
 てめえこのやろう騙しやがったな!
『いいえ。以前ご説明いたしましたように、私ら説明書族は、嘘はつけないんですってば。嘘をついたり禁則事項に触れたりしたら機能停止ですんで』
 嘘だったろ! 俺が消えるっていうのあれ嘘だったじゃんか! だって消えたの俺でなくてあいつのほうで――!
『私がご説明しましたのは、時間が来るとキノコの効力が切れて一人になるということだけでしたが。どちらが本体で、どちらがキノコの効力で1UPした子実体で、時間がきたときに消えるほうであるかという件につきましては、訊かれなかったのでユーザー様にはご説明しておりません』
 あれ? でもだって。俺。生まれたとき――起きたときに、裸で。
『1UPしたらどちらも裸ですよ。服までは増えませんよ魔法じゃないんですから。寝ぼけたまま先に服着るのがどっちかなんて、コインを投げて裏が出るのと大差ない確率でしょう』
 けどっ。だけど理央がたしかにそう言って――。
『ああ。はい。では訊かれましたのでご説明します。理央様にはご説明させていただきました。本物の見分け方も伝授させていただきました。ユーザー様は話を最後まで聞かれないのがお得意であるようで、理央様からも聞いていらっしゃらなかったようですね。1UPしてきた子実体のほうに古傷はついていません。なにしろ新品ですから。ところでユーザー様は、小学三年のとき、美奈様と大喧嘩して七針縫うケガを頭にされたとのことですが、たとえばそれを確かめてみたりすればわかることですよね。――なぜ確認されなかったのですか?』
 おまえが説明しなかったからだろう。
『ああ。それは失敬』
 拓真は頭に手をやった。おそるおそる髪の毛に指を差しいれ、傷を探る。
 そこには確かに傷があった。口喧嘩で美奈を一発はたいたら、十七発お返しされて、泣いて逃げようとして、角に頭をぶつけてできた傷だ。
 九歳にして救急車というものに乗ってしまった。病院までついてきた美奈は治療が終わるまではまったく泣かず、拓真が出ていったら、泣きじゃくってまったく止まらなくなった。
「は。ははっ――」
 力が抜けて、絨毯の上にへなへなと崩れる。
「はははっ。ははははは」
 乾いた笑いが出ていった。止まらなかった。
「ひとつ訊いていいか」
 笑いも収まって、拓真はそう言った。
『ええなんでもご質問ください。即座に回答いたします。それが説明書の仕事です』
 なんで黙ってた。
『そんなの面白いからに決まってるじゃないですか。おかげでユーザー様のかわいいところが見られましたし』
 ばしばしと、絨毯のうえにメンコのように三回叩きつけてから、手にとって、もういちど開いてみる。
『気はお済みですか?』
「拓ー、ねえまだー? もういーかーい?」
 美奈の声が聞こえてくる。いつのまにか隠れんぼになっているようだ。
「パパー、まだですかー? 左じゃなくて右のほうがいいとぼく思いまーす!」
 ヒカリの声も聞こえる。やっぱりぜんぜん学習していなかった。
『ほらヒカリが待ってますよ。二対一でやればババ抜きに勝てると思って時空通販で取り寄せたキノコを食べてしまったいやしん坊のパパの義務として、ちゃんと付き合っておあげなさい』
 言われなくても――。
 さっきの続きをするために、拓真は腰をあげた。
 それにしても――。今夜はなにかと忙しい。自分をニセモノと思いこんでいるあいつ【あいつ:傍点】のことで美奈に相談しにいって、そしてすぐあとにはドア越しに美奈と話しながら、同時に自分の部屋ではヒカリとババ抜きをやっていて――。
 あれ?
 拓真は立ち止まって、首を傾げた。
 記憶が混じっている……? あいつ【あいつ:傍点】と俺の記憶が、両方、二セット存在している? ていうか、あいつ【あいつ:傍点】ってどっち? 俺ってどっちだったっけ?
 まあいいか、とすぐに思い直した。
 あいつ【あいつ:傍点】も俺も、どちらかが消えたわけではない。騒ぐべきことはなにも起きていない。どっちがどっちかなんて、もうどうでもいい。
 ヒカリの手から左の札を抜き取ってすれ違い、美奈とのかくれんぼのために隠れられる場所を探しに、階下へと降りてゆく。
「もういーかーい?」
 美奈の声が聞こえる。ああ忙しい。
 体が二つほしいくらいだ。
                                  〜FIN〜